【書評】
送られてきた本書を手にしたとき、「ここまできたか」という感慨を覚えた。一つは、痛みについての生理や薬理について知りたいという医療従事者の関心の高まりが存在するという事実である。もう一つは、理解してもらうための著者の工夫の仕方である。その工夫の仕方は、たとえていえば「生活」を「暮らし」と、「世界」を「世の中」とするような、わかりやすい表現への置き換えである。
家庭環境のせいで、幼いころから評者は「痛み」に関心をもっていた。医師になり、整形外科医として腰痛を自分のlife workに掲げて仕事をした。当時、現場での実情と研究成果との間には相当な乖離があった。たとえば、腰痛の診断は単純X線像で行い、治療はその効果発現機序も治療成績も不透明な状態での実施であった。
腰痛の国際学会(International Society for the Study of the Lumbar Spine:ISSLS)で、“Pain and the Nerve Roots”というシンポジウムで、痛みがはじめて取り上げられたのが1982年である。当時、演題のほとんどは画像診断、生体力学、そして手術であった。目にみえない痛みを、画像を代表とした形態でとらえようとしていた時代である。腰痛の診断・治療は壁に突き当たっていた。
文化の視点から痛みの歴史をたどってみると、示唆的なエピソードが垣間みえてくる。
医療の対象としての痛みは当初、切断や抜歯に代表される「目にみえる疼痛」であった。1846年の有名なエーテルを使った最初の外科手術の成功により、疼痛の治療は完全に解決したかにみえた。しかしその後、医療は「目にみえない痛み」に直面した。
「目にみえない痛み」の多くは慢性である。慢性の痛みは、急性の痛みや重篤な疾患と比べてあまり深刻にはみえない。しかし最新の研究は、慢性の痛みが免疫機能や生活習慣病の発症に関与していることを明らかにした。また、「動かないこと」が寿命、癌、認知症など、人間の健康の維持に深く関与していることも明らかになった。さらに最新の科学は、従来われわれが認識していた以上に早期から痛みに心理・社会的因子が深く関与していることも明らかにした。「健全な精神は健全な肉体に宿る」ではなくて、「健全な肉体は健全な精神に宿る」のである。
17世紀、デカルトによる痛みのロープ牽引モデルは、19世紀のベルやマジャンディーなどによる疼痛の器質的モデルの発展につながった。
ただ、痛みに関する科学の急速な進展により見失ってしまったこともある。それは、15世紀、フランチェスカの「キリストのむち打ち」の絵画に表現されている、痛みが有している社会的・心理学的意味である。この時代には、痛みは電気生理学的現象というとらえ方ではなくて、苦悩や苦痛を伴う情緒的要素が含まれていることを認識していた。
20世紀初頭、ルリッシュは、医療現場で医療従事者がみている痛みは実験室で
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